ソ連侵攻開始
日本敗戦の予感が色濃くなっていた1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、日本に対して侵攻を開始しました。その対象は千島・樺太および満州でした。
しかし満州で生活を営んでいた満蒙開拓団はソ連の対日参戦を予期しておらず、突然の侵攻開始に混乱に陥りました。
Feature — 1945
ソ連の対日参戦から関東軍の撤退、逃避行、集団自決、難民収容所、そして引き揚げと中国残留孤児まで——国策で満州へ送られた30万以上の人びとが直面した戦後を時系列で記録します。
1932年から1945年にかけて、国策「満蒙開拓」により約27万人の開拓団員と家族、約8万6千人の義勇軍が満州へ渡りました。全国47都道府県から送り出された人びとは農地を開き、満州の大地に生活基盤を築いていました。
1945年8月9日、その生活は突如として崩壊します。ソ連の対日参戦によって始まる混乱は、数十万人の命と運命を一変させました。
日本敗戦の予感が色濃くなっていた1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、日本に対して侵攻を開始しました。その対象は千島・樺太および満州でした。
しかし満州で生活を営んでいた満蒙開拓団はソ連の対日参戦を予期しておらず、突然の侵攻開始に混乱に陥りました。
満州地方の守備・防衛を担っていた関東軍が守ってくれるという期待がありましたが、日本軍は8月10日、関東軍に「関東軍は朝鮮を防衛せよ。満州は放棄も可」という命令を下しました。
国策の名の下で満州に送られた30万以上の開拓民は、中国の大地に置き去りにされたのです。
ソ連との国境付近では突如ソ連軍が開拓団に侵攻し、開拓団民は着のみ着のまま大都市を目指して逃避行を始めました。ソ連との国境付近から内陸の大都市であるハルビンや満州国の首都であった新京(現在の長春)へは100km近くの距離があります。
平時であれば都市をつなぐ鉄道も走っていましたが、混乱で汽車は走らず、川をまたぐ橋もソ連の侵攻を足止めしようと関東軍が破壊していました。守ってくれるはずの関東軍に見捨てられ、退路まで絶たれた開拓民は徒歩での避難を余儀なくされました。
▲ 終戦前後に満蒙開拓団を襲った事件の抜粋
逃避行の間にソ連兵の攻撃、現地住民の襲撃、病気、栄養失調などで多くの人が命を落としました。そのような最後を望まず、全員で自決を図った開拓団もありました。
幼い子供を連れて逃げるのは不可能だと察し、わずかな希望を持って現地中国人に我が子を託した親も少なからずいました。
逃避行の目的地となった都市もまたソ連軍に攻略されており、生活に必要な物資が足りない状態にありました。そこに地方から逃れてきた開拓団民が加わり、ハルビンや新京などでは「難民収容所」が作られました。
そこでの生活は非常に過酷で、必要な食事を摂ることができず、また非常に不衛生な環境ということもあり、多くの人が命を落としました。また冬には体を温めるだけの燃料や衣類がなく、凍死する人も多くいました。
そのような環境の中で、命を繋ぐために中国人の元に引き取られたり、売られてゆく子供たちが多くいました。一方でソ連の侵攻の影響を大きく受けなかった開拓団も、現地住民からの襲撃などに遭い多くの犠牲を生んでいました。冬には栄養失調に加えて疫病も流行し、直接的な惨禍を逃れた人の命が多く失われました。
終戦から1年余りが経った1946年(昭和21年)秋、本格的な引き揚げが始まりました。現在の遼寧省にある葫蘆(ころ)島が唯一の引揚港となりましたが、内陸部で年を越した開拓団が引き揚げるためには長い距離を移動する必要があり、そこでもまた助かった命が失われました。
1945年8月からの混乱で中国人に引き取られた子どもたちのほとんどは引き揚げることができず、中国に残らざるを得ませんでした。
日本政府が公式に認めている中国残留日本人は約7,000名。身元が判明した人はごくわずかで、さらに残留日本人と知らずに中国で生きた人も多くいると考えられています。
1945年8月からの混乱で中国人の家庭に引き取られた子どもたちの多くは、1972年(昭和47年)の日中国交正常化まで日本の地を踏むことはできませんでした。日本に帰国した人でも、長期間中国で生活していたために日本語に不自由がある人がほとんどで、経済的・社会的にも弱い立場に置かれていました。
2002年(平成14年)には残留日本人の9割が原告となった国家賠償請求裁判が、東京・大阪など15の地方裁判所で行われました。この裁判を期に、帰国した残留日本人に対しての「新支援法」が制定されました。