満蒙開拓を知る

「満蒙開拓」の背景

満蒙開拓団送出の歴史は、大きく3つの部分に分けることができます。

  1. 1870年代から1932年の「満州国」建国
  2. 明治維新で文明国家の仲間入りを果たした日本は、1870年代に清、そして李氏朝鮮と国交を結びました。しかしそこには朝鮮支配を目指す政府の思惑が存在していました。その結果、朝鮮をめぐって日本と清はさまざまな面で対立を繰り返します。

    1900年前後は、列強が中国の利権をめぐって対立した時期でもありました。その中で日本は明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争で中国・山東省における利権を拡大します。さらに大正2年(1914)に勃発した第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由にドイツが租借していた山東省に攻め入り、占領しました。そして「二一箇条要求」により、中国での支配を確固たるものにしました。中国におけるさまざまな利権を防衛するために作られた軍隊が「関東軍」です。

    昭和6年(1931)、奉天(現在の遼寧省)郊外で、日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破される「柳条湖事件」が起こりました。関東軍が計画・実行した事件ですが、関東軍はこれを中国軍による犯行と決めつけ、中国東北部における軍事展開の口実としました。そして昭和7年(1932)3月、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を担ぎ出し、満州国の建国を一方的に宣言しました。

  3. 満州国建国から1941年の太平洋戦争勃発
  4. 満州国の建国は、当時首相を務めていた犬養毅らからの反発を招きました。これは、昭和4年(1929)の世界恐慌とそれに伴う経済の疲弊などに端を発した陸海軍による軍事政権樹立の動きを刺激し、昭和4年5月15日、犬養首相が暗殺される「5.15事件」が起こりました。犬養に代わって首相になった元海軍大将・斎藤実は満州国の建国を承認。この頃から関東軍は満州に武装した農業移民を送り、農業の傍らロシアとの国境警備にあたらせることを計画し始めました。これがのちの「試験移民(武装移民)」です。

    昭和6年(1936)、日本の植民地管理を担当する拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を発表。20年という長期間で、日本人100万戸を満州に農業移民として送り込む「国策」としての「満蒙開拓」の始まりです。

  5. 太平洋戦争勃発後
  6. 昭和16年(1941)の太平洋戦争勃発により、日本はそれまでの日中戦争に加え、欧米列強をも敵として立ち向かうことになりました。欧米による経済封鎖に伴い日本国内の経済は大きく変質。大都市近郊では軍需産業が盛んになり、人手不足が発生しました。しかし地方都市ではそれまでの産業が衰退。多くの失業者が都市に溢れました。

    そのような状況でも満州を「日本の生命線」と位置づけ、それまで以上に満蒙開拓への参加を呼びかけました。対象者も農業経験者にとどまらず、都市部の失業・転業者で構成される「転業開拓団」が作られ、わずかな訓練を経て中国東北地方に送られました。

このようにして満蒙開拓は国策として実施され、日本を取り巻く環境の変化に伴ってその内容も大きく変化していったのです。

「満蒙開拓移民」の形態

昭和11年(1936)の「二十カ年百万戸送出計画」以前に満州に送られた移民には次のようなものがあります。

  • 試験移民(武装移民)
  • 1930年ごろから関東軍や拓務省が中心となって計画が進められ、昭和7年(1932)に正式に始まった移民団です。農業移民を武装させて国境付近に配置し、満州の北と国境を接するソビエトの脅威を防ぎ、最終的には日本軍に変わって永続的に国境を防衛させる目的がありました。実際、満州に渡ったのは兵役を終えた独身の在郷軍人でした。

    第一次、第二次はそれぞれ500名程度が満州に渡りましたが、度重なる匪賊の襲撃や不作、「屯墾病」と呼ばれる精神的不調・疾患により、160名を超える退団者を出しました。

    この失敗が、移民を家族単位で送出する動きに繋がりました。

  • 自由移民
  • 試験移民以外で満州に渡った移民です。

    明治40年(1907)ごろには兵庫県人の勝弘貞次郎、高知県人の大江維慶などが満州における日本企業の所有地内で農耕をはじめました。また昭和7年(1932)には「鏡泊学園」が満州国文教部から許可を得て、牡丹江から数10km離れた鏡泊湖の湖畔に設置されました。

昭和11年(1936)の「二十カ年百万戸送出計画」に基づいて送出された「満蒙開拓団」には以下の分類があります。

  • 青少年義勇軍
  • 政策の中・後半に送出されました。募集が開始されたのは昭和13年(1938)。募集されたのは16歳から19歳の男子でした。内原訓練所(現在の茨城県水戸市内原)において数ヶ月間訓練を受けたのちに満州に渡り、農業移民に加わりました。終戦までに満州に渡ったのは8万6千人余りで、これは全開拓団民の3割に相当します。

  • 勤労奉仕隊
  • 昭和14年(1939)から男子高等教育機関で必修となった軍事教練の一環で満州に渡ったものを指します。勤労奉仕を目的として1〜3ヶ月程度満州に送られ、農作業や道路建設に従事しました。

    これによって日満の交通量が増大したため、それまで学校により行われていた「満州への修学旅行」は禁止されました。

  • 農業移民
    • 分村・分郷開拓団
    • 昭和12年(1937)に始まった国策としての満蒙開拓の大部分を担った開拓団です。町村が単独で開拓団を組織し送出した「分村開拓団」と、周辺町村が合同で団を組織・送出した「分郷開拓団」に大別されます。さらに、分村開拓団には「大日向型」「南郷型」「庄内型」(庄内型を分類に含めるかについては諸説あり)があります。

    • 転業開拓団(帰農開拓団)
    • 太平洋戦争開戦以降の日本経済の変質により失業した商工業者が、県や市の単位で結成した開拓団です。団員のほとんどは農業経験がありませんでしたが、全国各地に設けられた訓練所で農業指導を受けて満州に渡りました。一部には農家の次男・三男などが含まれていました。

  • 自由移民
  • 国・県・市の募集以外の方法で満州に渡った移民です。

「満蒙開拓移民」の戦後

日本敗戦の予感が色濃くなっていた昭和20年(1945)8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、日本に対して侵攻を開始しました。その対象は千島・樺太および満州でした。

しかし満州で生活を営んでいた満蒙開拓団はソ連の対日参戦を予期しておらず、突然の侵攻開始に混乱に陥りました。満州地方の守備・防衛を担っていた関東軍が守ってくれるのではないかという期待もありましたが、日本軍は8月10日、関東軍に「関東軍は朝鮮を防衛せよ。満州は放棄も可」という命令を下します。つまり、国策の名の下で満州に送られた30万以上の開拓民は、中国の大地に置き去りにされたのです。

ソ連との国境付近では突如ソ連軍が開拓団に侵攻し、開拓団民は着のみ着のまま大都市を目指して逃避行を始めました。しかしソ連との国境付近から内陸の大都市であるハルビンや満州国の首都であった新京(現在の長春)へは100km近くの距離があります。平時であれば都市をつなぐ鉄道も走っていましたが混乱で汽車は走らず、川をまたぐ橋もソ連の侵攻を足止めしようと関東軍が破壊していました。守ってくれるはずの関東軍に見捨てられ、退路まで絶たれた開拓民は徒歩での避難を余儀なくされました。

その間にソ連兵の攻撃、現地住民の襲撃、病気、栄養失調などで多くの人が命を落としました。そのような最後を望まず、全員で自決を図った開拓団もありました(事件)。幼い子供を連れて逃げるのは不可能だと察し、わずかな希望を持って現地中国人に我が子を託した親も少なからずいました。

逃避行の目的地となった都市もまたソ連軍に攻略されており、生活に必要な物資が足りない状態にありました。そこに地方から逃れてきた開拓団民が加わり、ハルビンや新京などでは「難民収容所」が作られました。そこでの生活は非常に過酷で、必要な食事を摂ることができず、また非常に不衛生な環境ということもあり、多くの人が命を落としました。また冬には体を温めるだけの燃料や衣類がなく、凍死する人も多くいました。

そのような環境の中で、命を繋ぐために中国人の元に引き取られたり、売られてゆく子供たちが多くいました。

一方でソ連の侵攻の影響を大きく受けなかった開拓団も、現地住民からの襲撃などに遭い多くの犠牲を生んでいました。冬には栄養失調に加えて疫病も流行し、直接的な惨禍を逃れた人の命が多く失われました。その中で多くの子どもたちが中国人の家庭に引き取れていったことは言うまでもありません。

終戦から1年余りが経った昭和21年(1946)秋、本格的な引き揚げが始まりました。現在の遼寧省にある葫蘆(ころ)島が唯一の引揚港となりましたが、内陸部で年を越した開拓団が引き揚げるためには長い距離を移動する必要があり、そこでもまた助かった命が失われました。また、1945年8月からの混乱で中国人に引き取られた子どもたちのほとんどは引き揚げることができず、中国に残らざるを得ませんでした。その後「中国残留日本人孤児」と呼ばれる、激動の中国社会を生き抜いた彼らの大半は、昭和47年(1972)の日中国交正常化まで日本の地を踏むことはできませんでした。

「中国残留日本人」という問題

日本政府が公式に認めている中国残留日本人は7,000名あまり。身元が判明した人はごくわずかで、さらに残留日本人と知らずに中国で生きた人も多くいると考えられています。日本に帰国することができた人でも、長期間中国で生活していたために日本語に不自由がある人がほとんどで、また経済的・社会的にも弱い立場に置かれていました。

平成14年(2002)には残留日本人の9割が原告となった国家賠償請求裁判が、東京・大阪など15つの地方裁判所で行われました。原告側は残留孤児の被害が戦前・戦後の日本政府の政策によって生み出されたものであると主張。戦後早急な引き揚げ政策や、帰国後の生活自立のための支援策を取るべきだったが行わなかったとして賠償を求めました。一方で国側は残留孤児の被害はソ連侵攻によって引き起こされたものであると主張。その上で残留孤児の被った被害は「国民が等しく受忍すべき戦争被害」であると反論していました。

15つの裁判所で行われた裁判のうち、勝訴したのは神戸地裁のみ。他の7つの裁判では原告の訴えは却られ、その他の地裁での裁判は取り下げられました(国家賠償訴訟)。

この裁判を期に、帰国した残留日本人に対しての「新支援法」が制定され、現在も運用されています。しかし戦後80年、日中国交正常化から50年が過ぎた現在、「帰国者1世」の支援だけではなく、中国で生まれ育ち「1世」と共に来日した「帰国者2世・3世」や残留日本人の配偶者が抱える課題への支援が求められています。