「満蒙開拓移民」の戦後

日本敗戦の予感が色濃くなっていた昭和20年(1945)8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、日本に対して侵攻を開始しました。その対象は千島・樺太および満州でした。

しかし満州で生活を営んでいた満蒙開拓団はソ連の対日参戦を予期しておらず、突然の侵攻開始に混乱に陥りました。満州地方の守備・防衛を担っていた関東軍が守ってくれるのではないかという期待もありましたが、日本軍は8月10日、関東軍に「関東軍は朝鮮を防衛せよ。満州は放棄も可」という命令を下します。つまり、国策の名の下で満州に送られた30万以上の開拓民は、中国の大地に置き去りにされたのです。

ソ連との国境付近では突如ソ連軍が開拓団に侵攻し、開拓団民は着のみ着のまま大都市を目指して逃避行を始めました。しかしソ連との国境付近から内陸の大都市であるハルビンや満州国の首都であった新京(現在の長春)へは100km近くの距離があります。平時であれば都市をつなぐ鉄道も走っていましたが混乱で汽車は走らず、川をまたぐ橋もソ連の侵攻を足止めしようと関東軍が破壊していました。守ってくれるはずの関東軍に見捨てられ、退路まで絶たれた開拓民は徒歩での避難を余儀なくされました。

その間にソ連兵の攻撃、現地住民の襲撃、病気、栄養失調などで多くの人が命を落としました。そのような最後を望まず、全員で自決を図った開拓団もありました(開拓団資料 事件)。幼い子供を連れて逃げるのは不可能だと察し、わずかな希望を持って現地中国人に我が子を託した親も少なからずいました。

終戦前後に満蒙開拓団を襲った事件の抜粋

逃避行の目的地となった都市もまたソ連軍に攻略されており、生活に必要な物資が足りない状態にありました。そこに地方から逃れてきた開拓団民が加わり、ハルビンや新京などでは「難民収容所」が作られました。そこでの生活は非常に過酷で、必要な食事を摂ることができず、また非常に不衛生な環境ということもあり、多くの人が命を落としました。また冬には体を温めるだけの燃料や衣類がなく、凍死する人も多くいました。

そのような環境の中で、命を繋ぐために中国人の元に引き取られたり、売られてゆく子供たちが多くいました。

一方でソ連の侵攻の影響を大きく受けなかった開拓団も、現地住民からの襲撃などに遭い多くの犠牲を生んでいました。冬には栄養失調に加えて疫病も流行し、直接的な惨禍を逃れた人の命が多く失われました。その中で多くの子どもたちが中国人の家庭に引き取れていったことは言うまでもありません。

終戦から1年余りが経った昭和21年(1946)秋、本格的な引き揚げが始まりました。現在の遼寧省にある葫蘆(ころ)島が唯一の引揚港となりましたが、内陸部で年を越した開拓団が引き揚げるためには長い距離を移動する必要があり、そこでもまた助かった命が失われました。また、1945年8月からの混乱で中国人に引き取られた子どもたちのほとんどは引き揚げることができず、中国に残らざるを得ませんでした。その後「中国残留日本人孤児」と呼ばれる、激動の中国社会を生き抜いた彼らの大半は、昭和47年(1972)の日中国交正常化まで日本の地を踏むことはできませんでした。