「満蒙開拓移民」の形態
昭和11年(1936)の「二十カ年百万戸送出計画」以前に満州に送られた移民には次のようなものがあります。
- 試験移民(武装移民)
- 自由移民
1930年ごろから関東軍や拓務省が中心となって計画が進められ、昭和7年(1932)に正式に始まった移民団です。農業移民を武装させて国境付近に配置し、満州の北と国境を接するソビエトの脅威を防ぎ、最終的には日本軍に変わって永続的に国境を防衛させる目的がありました。実際、満州に渡ったのは兵役を終えた独身の在郷軍人でした。
第一次、第二次はそれぞれ500名程度が満州に渡りましたが、度重なる匪賊の襲撃や不作、「屯墾病」と呼ばれる精神的不調・疾患により、160名を超える退団者を出しました。
この失敗が、移民を家族単位で送出する動きに繋がりました。
試験移民以外で満州に渡った移民です。
明治40年(1907)ごろには兵庫県人の勝弘貞次郎、高知県人の大江維慶などが満州における日本企業の所有地内で農耕をはじめました。また昭和7年(1932)には「鏡泊学園」が満州国文教部から許可を得て、牡丹江から数10km離れた鏡泊湖の湖畔に設置されました。
昭和11年(1936)の「二十カ年百万戸送出計画」に基づいて送出された「満蒙開拓団」には以下の分類があります。
- 青少年義勇軍
- 勤労奉仕隊
- 農業移民
- 分村・分郷開拓団
- 転業開拓団(帰農開拓団)
- 自由移民
政策の中・後半に送出されました。募集が開始されたのは昭和13年(1938)。募集されたのは16歳から19歳の男子でした。内原訓練所(現在の茨城県水戸市内原)において数ヶ月間訓練を受けたのちに満州に渡り、農業移民に加わりました。終戦までに満州に渡ったのは8万6千人余りで、これは全開拓団民の3割に相当します。
昭和14年(1939)から男子高等教育機関で必修となった軍事教練の一環で満州に渡ったものを指します。勤労奉仕を目的として1〜3ヶ月程度満州に送られ、農作業や道路建設に従事しました。
これによって日満の交通量が増大したため、それまで学校により行われていた「満州への修学旅行」は禁止されました。
昭和12年(1937)に始まった国策としての満蒙開拓の大部分を担った開拓団です。町村が単独で開拓団を組織し送出した「分村開拓団」と、周辺町村が合同で団を組織・送出した「分郷開拓団」に大別されます。さらに、分村開拓団には「大日向型」「南郷型」「庄内型」(庄内型を分類に含めるかについては諸説あり)があります。
太平洋戦争開戦以降の日本経済の変質により失業した商工業者が、県や市の単位で結成した開拓団です。団員のほとんどは農業経験がありませんでしたが、全国各地に設けられた訓練所で農業指導を受けて満州に渡りました。一部には農家の次男・三男などが含まれていました。
国・県・市の募集以外の方法で満州に渡った移民です。