満蒙開拓を知る

「満蒙開拓」とは

満蒙開拓は、1930年代から1945年の太平洋戦争終結まで、日本政府が国策として推進した満洲(現在の中国東北部)への大規模な移住計画です。日本は、満洲を日本の経済圏に組み込み、資源の開発や新たな開拓地として利用することを目指しました。

なぜ満蒙開拓が行われたのか

満蒙開拓が大日本帝国の国策として実施された理由は、大きく分けて2つあります。

  1. 日本国内の経済悪化
  2. 1905年の東北凶作や1929年の世界恐慌、そして1937年からの日中戦争によって、日本経済は大きく疲弊していました。 多くの人口を支えるだけの食糧や仕事が国内になく、新天地「満洲」への移民政策でそれらの課題を解決する意図がありました。

  3. 対ソ連の国防
  4. 当時大きな脅威として考えられていたソ連から、日本本土・朝鮮の利益を防衛するためには満洲の支配が必要だと考えられていました。 軍事力による直接的支配に加え、「満洲国」人口の1割を「支配民族」としての日本人にすることで長期的な支配を行うという目的がありました。

満蒙開拓の実態

満蒙開拓団の多くは市町村などの単位で募集されました。多くは村・町が単独・合同で開拓団を送出した「分村開拓団」「分郷開拓団」ですが、軍事訓練を受けた男子で組織された「青少年義勇軍」などもあります。

「満州へ行けば二十町歩の地主になれる」と信じて多くの人が満洲に渡りましたが、厳しい自然環境、ソ連との国境紛争、そして太平洋戦争の激化などにより、多くの開拓団員が困難な生活を強いられました。

戦後と中国残留日本人孤児

太平洋戦争の終結後、ソ連軍の侵攻により、満洲にいた日本人は混乱に陥りました。多くの開拓団員が命を失い、あるいは中国に置き去りにされました。特に、子どもたちは現地の人々に引き取られ、日本に帰国できずに「中国残留日本人」となりました。
「中国残留日本人」の引揚・帰国が実現したのは日中国交が正常化された1972年以降。終戦から実に30年余りが経過していました。帰国が実現しても慣れない日本での生活は苦しく、2002〜2007年には帰国者の9割が原告となり国に対する賠償訴訟が行われました。

満蒙開拓と現在

満蒙開拓は、日本と中国の関係に深い傷跡を残しました。 中国残留日本人孤児の問題は一世だけではなく二世・三世など子・孫の代にまで影響を与えています。

また、中国と日本の狭間で生きた/生きる彼らの存在は、国際的な人口流動の中で揺らぐ日本において、「日本人」の存在や日本社会の将来像にさまざまな示唆や疑問を与えています。