人の数だけある歴史を
未来に語り継ぐ。

忘れない。繰り返さない。

 1930年代に始まった満蒙開拓は、日本人・中国人・朝鮮人など多くの人々に深い傷を負わせました。戦後80年近くが経った今日も、その傷と向き合いながら生きる人たちがいます。
 彼らの「日本社会から満蒙開拓の記憶が無くならないでほしい」という想い、中国の大地に倒れた先人の「二度と繰り返してくれるな」という声無き声から生まれたのが、この満洲開拓資料館です。

1936(昭和11)年
「満蒙開拓」を国策として閣議決定

当時の東京都人口に匹敵する100万戸・500万人を20年間で満洲に送る計画。 満洲人口の1割を支配民族としての「大和民族」で占める構想でした。 「満蒙開拓団」に加えて「青少年義勇隊」「転業開拓団」の送出も行われました。
終戦直前までに27万人[1]が「国策」の名の下で渡満しました。

[1]「満洲国史」満洲国史編纂刊行会編, 1973

1945年8月9日 ソ連対日参戦

ソ連軍の侵攻、関東軍の北満放棄、現地住民の襲撃などの要因が重なり死者は多数。国境付近に入植した開拓団の多くが壊滅しました。
極寒の「難民収容所」でも死者が相次ぎ、全土で8万人以上[2]が日本に帰ることなく命を落としました。

満洲での死者数8万人

[2]「満洲国史」満洲国史編纂刊行会編, 1973

中国残留邦人の終わらない戦後

日本に引き揚ることができなかった残留邦人。戦後帰国を果たしたのは1972年日中国交正常化以降を中心に6000名以上[3]と言われています。
戦後日本の言語・文化の壁は大きく、帰国者の半数以上[4]が生活保護の受給を余儀なくされています。

帰国者1世6000人のうち、半数以上が生活保護を受給

[3]「中国残留邦人の状況(令和5年7月31日現在)」厚生労働省
[4]「平成15年中国帰国者生活実態調査」厚生労働省